ぎょうざの焼き方

koyateru2005-05-22

写真は「ポールス・ヒマラヤン・ムスク」

 先日、週刊朝日5月6日13日合併号を読んでいたら、料理研究家の土井義晴さん(土井勝さん次男)の「ぎょうざの焼き方」が載っていた。それによると、

<油をひいたフライパンに餃子を並べ、熱湯を入れて蓋をする。中火から強めの加減で火にかけていく。水分がなくなれば、蓋を取って完全に蒸発させる。底が乾くと餃子がフライパンの上を動く。その前に無理にはがぞうとすると皮が破れる。
 ・・・・先に焼き色をつけ、水を入れてむし、また焼くというのは、せっかく焼いたものが一度ふやける。・・・>


というもの。土井勝さんといえば、子どもの頃のTV料理番組で一番よく見かけた方である。確か大阪の方なので、関西TVや毎日TVだったんだ思う。語り口が穏やかで、子ども心に料理っていいなあ〜と思ったのをよく覚えている。(そう私はすごくTVっ子だったんです。)

 いつも我が家は、焼き色をつけてから熱湯を入れていたので、初めて、すぐに熱湯を入れてみた。結果は・・・おいしい!!今度からはこのやり方でいこう!

今日の内田先生<40代を語る>
 

この世代の特徴は「デタッチメント」志向である。
めんどうな浮き世のしがらみや親族の葛藤や師弟だの親の血を引く兄弟よりもの義兄弟だのストリート・ファイトで苦楽をともにした同志だのいうややこしい人間関係を「好まれない」という点を世代的な徴候としている。
 彼らがそのようなものを「好まれない」のは先行世代(私たちのことだ)がそういう「ややこしい人間関係」が大好きな「コミットメント世代」だったからである。(中略)
 「コミットメント」というのは「のめりこむ」ということであって「のめりこみ」には、「好きで好きでたまらないから」という場合と、「あまりに気に障るので絶えず問題にする」という場合がある。40代のみなさんは、そのような「コミットメント」世代に「うんざり」するというかたちで人格形成を遂げられた。そういうものである。
 あらゆる世代は先行世代の「前者の轍を踏まない」というかたちで走路を選択する。
そのせいで、いまの40代のみなさんは、「ややこしい人間関係に過剰にコミットしない」ということを世代的党是とされて今日の日をお迎えになったのである。
 それは言い換えると「オレのことはほうっておいてほしい」「好きにやらせてくれ」「所属組織に対するなまじな忠 誠心のようなものを期待しないでくれ」「私生活に干渉しないでくれ」「他人がどうなろうと、オレの知ったことではない」的なクールでニヒルな方々がこの世代には相対的に多いということを意味している。
 別にそれはそれでよろしいのだが、彼らはやはり日本が国民国家として安定期にはいった時代にお育ちになったので、「かなり効果的法治されている」ことや「通貨が安定していること」や「言論の自由が保障されていること」などを「自明の与件」とされていて、それを「ありがたい」(文字通りに「存在する可能性が低い」)と思う習慣がない。
 そのような与件そのものを維持するためには「水面下の、無償のサービス」(村上春樹さんのいうところの「雪かき仕事」)がなくてはすまされない、ということについてあまりご配慮いただけない。
 だから、この世代の特徴は、社会問題を論じるときに「悪いのは誰だ?」という他責的構文で語ることをつねとされていて、「この社会問題に関して、私が引き受けるべき責任は何であろう?」というふうに自省されることが少ないということである。
もちろん、このような自責的反省をする方はどの世代においても決して多くはないので、40代だけを責めるのは不公平であるが、それでも世代的に突出しているという印象は否めない。
 これはちょうどいま学齢期の子どもの親御さんたちの世代なのであるが、この方々が「学校に怒鳴り込んでくる」比率は先行世代の比ではないということを各級の学校の先生からお聞きしている。

(以下は内田先生のHPからご覧下さい)

 私が大学生の頃、「朝日ジャーナル」という雑誌があって、そこに全国の大学を廻ってみるルポがあった。私の通う大学も取り上げられていて、(手元にはもうないけど)
確か「あまりに幼い感じがする。」といった一文があったような気がする。
 その世代がもう40代。大前研一氏はどこかのインタビュー記事でこの世代を「ジャンプ世代」って言われてました。その通り。特に、内田先生の以下の文は、上の世代の方が本当は言いたいんだけど言えないことなんでしょう。深く胸に刻んで日々過ごします、ハイ。

 この世代の特徴は、社会問題を論じるときに「悪いのは誰だ?」という他責的構文で語ることをつねとされていて、「この社会問題に関して、私が引き受けるべき責任は何であろう?」というふうに自省されることが少ないということである。