聴衆の熱意 (非言語的シグナル送受信)

 内田先生の日記にあった「聴衆の熱意」(8月10日)についての項があまりに、同感だったので、ここにコピーペーストしておきます。
 
 上越教育大西川純先生の「第四回教室『学び合い』フォーラム2008」の講演に出かけての日記です。

 

・・・先日の某所(※『学び合いフォーラム』ではありません)での講演はまるで「コンクリートの壁」を前に話しているような感じであった。何を言っても反応がない。私の話を聴いているのか聴いていないのか、それさえわからない。たぶんこの先生たちの教室はあまりうまく行ってないだろうと思った。「人の話を聴く」というのは、かなり高度な能力だからである。だって、聴いているだけなんだから。何か言う度に「異議なし!」とか「よ、大統領!」とかけ声がかかるわけではない。
 黙っていて、ときどき笑ったり、息をついたり、どよめいたりするだけである。あとは、まなざしや座り方や腕の組み方や鉛筆の持ち方のような非言語的なシグナルで話している人間に対して「同意する」とか「よくわからなかったので、もっと詳しく」とか「それはどうかな」とか、さまざまなメッセージを発信する。
 
 この非言語的なシグナルの送受信は教室で子どもたちと向かい合うときに必須の能力である。非言語的なシグナルにも「語彙」があり「文法」がある。
子どもはそれを「非言語的シグナル送受信の熟練者」から習得する。だから、親や教師が「非言語的シグナル送受信の熟練者」であれば、子どもたちはすみやかにそれに習熟する。互いにわずかなサインで意思疎通ができるようになれば、大声を出したり、走り回ったりする必要はない。
 問題行動を起こす子どもも親たちはかなりの確度で「非言語的コミュニケーション」能力が低いと考えられる。表情や声のピッチや語調やわずかな動作の変化をシグナルに使って複雑なメッセージを送受信する術を家庭で学習してこなかった子どもは「シグナルが読めない」。

 問題行動というのはその集団の文脈になじまない行動のことだが、それは集団の文脈を熟知した上で、それに対して反対したり、批評的に構えたりしてなされているわけではない。私が知る限りでは、問題行動は「集団が採用している文脈が読めない」ことから派生する。

 教場における問題の多くは「非言語的なシグナルを感知する力」の不足が原因で発生する。私はそう考えている。
 だから、あちこちで講演していて、教師という同職集団でありながら、場所によって彼らの「聴く力」に差があることに困惑するのである。
 講演にきた人間に対して「私はおまえの話を聴きたくない」という弱い非言語的メッセージだけを送ってくる教師たちがときどきいる。その前に立つと、私は深い疲労感に捉えられる。おそらくこの方々は自分たちの教室で、それと同じメッセージを毎日子どもたちに送り、子どもたちからも送り返されているのだろう。
 そのせいでおそらく「私はおまえの話を聴きたくない」というのが「デフォルト」になっているのである。

 特に私に対して悪意や害意があるわけではないのだ。
「ふつう」にしているときに「私はおまえの話を聴きたくない」という微弱なシグナルをずっと発信しているのである。そうなるに至ったのには、痛ましい事情があるのだろうから、それを責める気はない。
だが、それでも自分は「耳をふさぐ」構えをデフォルトにしているということはときどき意識していた方がいいと思う。

 実は9日の学習会で、この夏講演会行脚をされている先生から、同じような話を聞きました。曰く「話していて壁がある」ことが瞬時に分かるのだそうです。
 熊本で聞いた、金田一先生や金先生の講演の参加者は、本当に素晴らしい聞き手であったと思います。それは、講演会終了後の暖かい拍手や、会場を去るときの表情に表れていました。
 いつか、内田先生にご講演のことを「結構疲れるもの」と聞いたのは、こういうことだったのだと納得しました。

 また、読み聞かせをしていると、この「非言語的シグナル」感覚のあるなしは、すぐに分かります。特に市立図書館での読み聞かせで、親子参加の場合、豊かにキャッチできる子供は、当然親も同じ反応をしています。そうして、共感するから、読み終わった後も、一緒に感想を共有できるのだなあと思います。

 それから、続けて、このフォーラムに集まる教員集団について

 

『学び合い』フォーラムに集まった教師たちはきわめて「非言語的シグナル」の送受信能力の高い先生たちだった。
『学び合い』という教育実践そのものがアナウンスされてからわずか数年のものであり、上越教育大の西川ゼミが発信した実践報告がネット上で広まったのを「たまたまキャッチ」した教師たちがそれを自分の教室で実践してみようとした、というかたちをとって広まった。
 ふつうは新しい教育方法が発案されて、実践されて、議論されて、検証されて、定着するまでには長い時間がかかる。

 『学び合い』の場合はネット経由で急速に広まった。だから、「たまたまキャッチした」という点ですでにスクリーニングがかかっている。
 そういう情報を「たまたまキャッチしてしまう」教師とそういう情報をつねにキャッチし損ねる教師がいる。こういう情報感度にどうして差がつくのか私にはうまく説明ができない。
 でも、何新しいことが生成している場に繰り返し「たまたま」出くわしてしまう人と、そういうことが身の上にさっぱり起こらない人がいるのは確かである。
「ここにあなたが学ぶべき情報がある」というアナウンスが明示的にされていなくても、「学ぶべき情報」に引きつけられる感覚というのは、人間の成長にとって死活的に重要なのである。

『学び合い』フォーラムはそのような感覚に例外的にすぐれた教師たちの自然発生的な集まりであった。

 太字は、koyateru
 
 「学ぶべき情報」に引きつけられる感覚を持っている教員は、これから学ぼうとしていることに関して今持っている知識の量の多寡は、関係ないのだと思う。ここ1年で、学校図書館教育を一緒に学ぼうとする教員に声を掛け、実際に一緒に学んできての実感である。

 きっと私のことを言っているのね!と思ってくれる先生方へ。
 今後もよろしくお願いいたします。