「読み聞かせをやっているか」

 

という大西忠治氏の名著がある。手元にあるのは、初版が1987年なので、教師になってしばらくして買った本ということになる。当たり前と言えば、当たり前の基本中の基本が書かれていて、今読み返しても若い先生に十分勧められる本であると思う。
 
 先日東京であった研究会でこの本のこと紹介され、書棚の奥に潜んでいた本を取り出し、読み返した。大西氏は、中学・高校の国語教師を長く務め、後年大学教授として活躍されていたが、本当に若くしてお亡くなりになった。
 
 私は若い頃、授業以前のスキルがよく分からず、年配の先生の授業を見ても、「きっと授業以前のもの」があるに違いないということまでは分かったものの、その具体はさっぱり理解できなかった。そういう時期に出会った本である。

 20年ぶりに読み返し、改めて名著であると認識したが、何より「読みきかせ」について、きちんと書かれており、しかも「私が言いたいことと同じ」なので、長文ですが、抜粋し、紹介します。

「読みきかせをやっているか」

 教師は、自分が子ども時代に感動し、ひきつけられた読み物を子ども達に読んでやること−それは教育的に必要なことである。いや、それは、教育的に必要なことだけでなく、教師のしゃべり方を身につけ、きたえておくという、職業上の自己訓練のために、きわめて都合のいい方法なのである。
(中略)・・・<読み聞かせのことを伝えてもやらない教師のことを>・・・

 自分の子ども時代に読んで心に残った本や、どうしても子どもに読ませたい、読んでやりたいという本がないからかもしれない。(中略)そしてまた、近頃の子どもは、先生に本を読んでもらって喜ぶとは思えないせいもあろう。マンガや、劇画や、映画や、テレビやファミコンや、そういう映像文化にどっぷり浸っている生徒に文学作品を聞かせることが必要なのかということだろうと思う。

 もちろん、そう言う時代だから必要なのである。現状に脅えないでやってみるというのが若者ではないか、若い教師というものではないか−私のように老人(当時 58才)でも「読み聞かせ」は現代の子ども達になお、心と耳をひきつけるものを持っていることを実感している。

 
 私が読みきかせをやってみて実感している意外な効用は「話し方」スキルが身に付くということである。特に「間の取り方」。これは、しばらく読んでみるとすぐに分かる。多分、続き物の物語を読めない先生は、児童が聞いているかどうか分からないような最初の数日間が耐えられないのだと密かに思っている。間の取り方のコツも掴めないままに、止めてしまうのは、もったいない!!のですけどね。

 最後に大西氏の言う「読み聞かせ」の作品を選ぶ5つの基準。
 
 

1 必ず長編であること
 2 1回20分以内とし、それを読み繋いでいくこと
 3 内容が事件性に富んでいること。たとえそれが科学的読み物であっても
   そういう性格をもっているものを選ぶこと
 4 描写的部分、事実のそのままの報告記録という部分を含み持っているこ   と。

 5 教師自身が好きな、ひきつけられた経験のある作品内容であること。

 今年は、長編に絞って読み聞かせをしようと思った年に再びこの名著に出会え、何だか幸せでした。

おまけ
 我が子に読み聞かせを続けたことを知っている方から「(その結果子どもが)本を読みますか?」と問われますが、どう見ても「まあ少しは読んでます」と言えるのは、次女のみ。しかも次女にしても「読まない日」があるから、「読む」とは言えない。
 数学ができるらしい長男や、英語ができるらしい長女は、「本を読む」という視点で見ると、私からのポイントは次女ほど高くない。だから、このブログをたまに読むらしい長男は、「一番褒められてるの A子(次女)だな」というワケなのである。
 その次女が嬉々として高校の図書館から借りてきたと私に見せた本の1冊が
 

 だった。しかも「名著復刻全集 近代文学館」のもの。
 私も多分高校時代に読みました。私は、この時代の本を大量に読んだお陰で、今の時代に生きられる幸せをより感じています。

おまけ
 26日(土)に東京の丸善に行くと、この赤い表紙の「蟹工船」が平積みされていました。今の時代が多喜二が書いた時代とだぶる・・ということらしいです。びっくりでした。