他者との共生

 私は自分が、漠然と「図書館教育をやりたい」と思ってきたから、本校でその機会を得て、試行錯誤しながら前へ前へ進むのは、当然である。
図書館にかかわりたいと最初に思ったのがすでにもう30年前なのだから、気合いだけはひけを取らないのである。

 でも、実際に動き出したこの3年間ずっと、「私は当然動くけれど、私だけがやっても意味がない」と思ってきた。

 一緒に図書館のことを語れ、一緒に図書館のことで動ける人が増えなければ、私が引退(退職)したら、「そう言えば、熱心にやってた人がいたね〜」でおしまいだからである。

 だから、多分この2年、何より時間を掛けたのは、多くの人に、私のやろうとしていることを説明し、一緒にできることはやろうよ〜との声かけである。
 
 そうして、この1年で「岩が動く」ような感触を得、改装3年が過ぎたことをしみじみ思い出した今日の内田先生日記が「他者との共生」。
 ナイスタイミング!!



  

・・・平たく言えば、その人が愉快に生きてゆくためにどれくらい多くの他者の存在を必要としているかが、その人の社会的成熟度の数値的な指標になるということである。
「自立」というのは、この「支え手である他者たち」の数があまりに多いので、入力の変化が当人のアクティヴィティにごく微細な影響しか与えないようなありようのことである。
 赤ちゃんが自立していないと言われるのは、母親がひとりいなくなるだけでたちまちその生存が危うくなるからである。
「オレは自立しているぜ」などといくら力んで宣言してもダメである。
自立というのはマインドセットの問題ではなく、現にどのように他者とわかちがたく共生しているかの問題だからである。
自立の最低限の要件は「異性のパートナー」「党派的同志あるいは〈兄弟盃〉をかわしたパートナー」そして「顧客または弟子または支援者」の三つのカテゴリーの他者に支えられていることである。

 太字はkoyateru

 私の「社会的成熟度の数値的な指標」は、どれぐらい?と自問する。

 

  おまけ
 所用で東京へ出掛けた長女に、新幹線の回数券を渡すと
「へえ、すごいね!」を繰り返すので、変だなあと思っていたら、1枚の切符で、何回も乗れると思ったらしい。(回数券って書いてあるからね。)
 あまりの世間知らずに絶句するが、私も大して変わらなかったことを思い出す。たくさんありすぎるが、自分でも「アホ」だと思うのは、社会人1年目に知った葬儀会館のこと。
 当時、大倉山にある神戸市立図書館へ週に1度通っていたが、その手前に葬儀会館があった。でも田舎では、当然自宅で葬儀をするので、そういう建物を知らなかった。最初は、通るたびに葬儀をやっているので、1ヶ月に3回もお葬式を出すなんてあまりにかわいそうな家庭だなと心から思っていた。
 気が付いたのは、4回目。「もう家族誰もいなくなっちゃう!!」と思い、気が付いた・・・・。
 わが子達が「天然」と言われるのは、多分に私の血が入っている。