読みきかせ に関する一考察
昨日の反省会で、一緒に読みきかせをやっている方が持っていた図書館から借りた
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2007/02
- メディア: 単行本
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これだよね!!と盛り上がったのは、以下の記述
自分の発した言葉が自分の思考や感性を呪縛する力の強さを侮ってはいけません。だから、メディアにかかわる人間の「情報評価能力」はまずもって自分自身の伝えるメッセージの「真偽」と「重要性」と「適所性」について向けられなければならない、私はそう思います。
その評価の努力は「聴き手に対する敬意」によってしか担保されません。
いくら滑舌がよく、博識で、英語ができ、自信たっぷりな人でも、その人が「自分の話を頭から信じ込む」タイプの人であれば、その人のメディアリテラシーはきわめて低いと断じなければならない。そして、その人のメディア・リテラシーの低さは聴き手に対する敬意の欠如ときれいにシンクロしているんです。
太字は、koyataru
これを読みきかせにあてはめればよく分かる。
「いくら、たくさんのお話を諳んじて語り、山のような児童書を読んでいて、自信たっぷりな人であっても、その人が「自分の語る(読む)話は、とてもすぐれていると信じる」タイプの人であれば・・」
となる。私が、読みきかせに適している人は、別に多くの児童書を読んで知っていることが条件ではない!とずっと考えていたのを全く同じである。(まあ、『11ぴきのねこ』ぐらいは知っておいて欲しいですけど)
帰宅して、山のようなドッグイアーと付箋紙とマーカーのついているこの本を読み返すことになりました。でも、すっきりしました。
これは、自分達のやっていることに対する自重の意味を込めての話です。