成人式

 暦の成人式は、明日だが、ここ沼津では、中学校単位での成人式が今日行われる。昨日は、そのリハーサルに長男が出掛けていく。
 長男の友人が成人式の実行委員をやっている関係で、「誓いの言葉」を頼まれたらしい。

 二女が「お兄ちゃんが成人式って言うことは、お母さんが親として成人になったということなんだね。」と言ってきた。

 子育ての第1ゴールに、やっとたどり着いた感じがする。
 第2ゴールは、社会人。

 私としては、かなり意図的に自立するように育てたつもりである。

 休み中に書棚を整理していたら
 

人間というもの

人間というもの

が出てきて、こんな文章が載っていた

 いい若者が、母親の私物として出現するようになったのは日本で言えば戦後のことで、弥生式農耕が入って以来、2000年の歴史からいえば、きんきん30年にすぎず、わらわれはこの異習に鈍感になるにはあまりにも歴史が新しすぎるのである。
 若い者を国家の公有にするという社会は私の好みでないが、かといって母親たちが自分の子宮にぶらさげるようにして大学の受験場についてゆき、入学式で拍手をし、就職する会社にまでついて行って上役たちにあいさつするという奇現象については、われわれの感覚が歴史的になお不慣れで、グロテスクであるというの身ぶるいの衝撃からぬけだせないでいる。逆に若者の側からいえば私物として育てられ、私物としての個々の倫理関係を強いられている若者たちが、はたして人間の社会を構成する上でどういう結果をもたらすのか、このことは日本の社会がこぞってそれを実験しているため、やがて歴史になってみなければわからない。

 初出は、1984年「ある運命について」で、それから、24年たっている。
司馬遼太郎が「異習」「衝撃」と表現したものは、すでに驚きの対象ではなく、「当然」と言っていい部分もあるかもしれない。
 司馬さんが生きていたら、実験結果(今の世の中、または、40代、30代)について、何て言うんだろう?

 私は、この文章をかなり共感を持って読んだ。

 ということで、成人式を迎えた長男についての記述は、今日をもって終了にします。この後は、無事論文を提出し、卒業、東京の大学への進学予定です。仕送り額、卒業後の親への返済額も確認しました。まずは、アパートを自力で探しに出掛けるところからですけどね。

 研究室泊まり込みが続き、研究漬けの長男を
「20才って、他にやることないのかね〜」と暢気に言っているのは、同じ年の頃、多分遊んでた夫。親世代が、辛苦を重ねたのに、子は親の心を知らずに・・というのは、長男の場合、当てはまらない。
 
 ともかく、成人式という区切りを迎え、親として少し肩の荷が下りました。
  
おまけ
 某所で、長男、中2の担任に出会い、思い出話に花が咲く。「家庭訪問に行ったら(長男)手作りのケーキを振る舞われた」と言われるが、私も長男も記憶なし。
(ケーキを)作っては、人に差し上げるという、かなり独りよがりで勝手なことをしてきたが、こうして思い出になるなら、結構インパクトがあるかも。