わがことのように喜ぶ
4月から、もう3ヶ月が過ぎ、いよいよ7月に入る。本年度の上4半期(っていう言い方をするかどうか分かりませんが)の総括(図書館関係)。
1 校内
① 年間カリキュラムに沿って、授業を行う。データを取る。
② 読解支援員+学校司書の方と共に、図書館整備を継続し、0〜8類 の整備に着手する
2 市内
① 図書館部会を本校で行い、図書館&授業公開をする。
図書館改装 基礎の基礎を伝える。
② 沼津で「学校司書」が初めて配属され、学校司書の方にも
図書館&授業を見ていただく。
③ 夏期研修会で、図書館の模擬授業を小学校1時間、中学校1時間
行う。(予定)
④ 市内PTA広報誌が「学校司書」を特集したので、寄稿する。
(発刊はまだ)
3 その他
① 「学校図書館」キラリ司書教諭の連載を5回まで書く。
(あと1回)
② 図書館実践研究会・静岡 が発足し、スタッフとして加わる。
③ 読書「ゆめ基金」の助成が決まり、第1回を静岡で行う。
ということで、多分、人生一番忙しかったような気がしますが、でもどう考えても、これ以上忙しくなるのは必至。生活にメリハリを付け、更なる段取り力と、集中力が必要になります。
自分にとって、図書館の仕事をするとはどういう意味を持つのか?
という回答は、内田先生が今日の日記(若者はなぜうまくはたらけないのか)に書いてくれました。
ありがとうございます。
労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。
だから、労働集団をともにするひとの笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない。
これは子どものころから家庭内で労働することになじんできている人には別にむずかしいことではない。
みんなで働き、その成果はみんなでシェアする。働きのないメンバーでも、集団に属している限りはきちんとケアしてもらえる。
働くというのは「そういうこと」である。
だが、社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。
どうして自分の努力の成果を他人と分かち合わなくてはいけないのか?
だって、それオレのもんでしょ?
違うのだよ。
太字はkoyateru。
いつかTVで、多くの著名人に「どうして学ぶのか」という連続インタビューをしていて、「個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得る」ということをはっきりと言っていたのは、宇宙飛行士の毛利さんただ一人だったような記憶があります。その時、この発言を理解できる高校生、大学生はいるのだろうか?と思ったのもよく覚えています。
「わがことのように喜ぶ」。いい響きです。