教師の条件

内田先生日記(6月21日)より。
 
 内田先生のこのゼミ記録は「街場の教育論」として本になるそうです。 楽しみに待っています。
 
 本来教師志望でなかった私は、常に「私が教師をやってていいのか」
 と自問しながらの日々であったように思います。
 そんな私へ、少し背中を押してくれる文章です。
   
太字はkoyateru

「学ぶことに対する欲求」は「学ぶことへの欲求」を現に生きている教師からしか学ぶことができない。
もし、子どもたちに学びを動機づけたいと望むのなら、教師自身が学ぶことへの動機を活性的な状態に維持していなければならない。
教師自身がつねにいきいきと好奇心にあふれ、さまざまな謎に惹きつけられ、絶えず仮説の提示と反証事例によるその書き換えに熱中していること。
それが教育を成立させるための条件である。
(中略)
先生は「先生であろう」とするときにすでに先生であり、「私はもう先生ではない」と宣言したあともまだ先生である。
「学ぶ」とはどういうことか、「教える」とはどういうことか、自分は果たして今も学んでいるのか、自分にはひとに教える資格があるのか・・・そういった一連の問いが念頭から離れることのない人間は、それだけですでに教師の条件を満たしている。
「学びへのニーズ」などというものは自存しない。
「学びへのニーズ」とは何か、それはどのようにして生まれ、死ぬのか、ということを専一的に考え抜く「私」が登場した「後に」子どもたちのうちにそれは生まれるのである。

 20代の頃は、学ぶための書籍代を「もったいない」と感じるようになったら、教師を辞めようと思っていました。
 20数年経っても、幸せなことに、書籍代は、もったいないとは思いませんが、果たしてそれが学んでいることになっているかどうかは、非情に疑わしい日々を過ごしております。