良導体

 内田先生(6月11日)日記より

 私はこの1年、図書館関係で、「人に伝える」ことがとても増えましたが、まだうまく伝えられません。でも、何とか伝えたい、理解して欲しいと思っています。今まで伝える機会も、伝える気持ちさえなかった私ですが、機会をいただくことで、「手渡す」ことの意義を考えるようになりました。そんな気持ちの私に、ストレートに効いた文章です。
 
 何でこうして、読み手を「そうそう」って思わせる文章が書けてしまうんだろう?
 太字はkoyateru

「良導体」というのは、その波動を次のひとへできるだけ正確に「手渡す」ように受信する人のことである。
 伝達するためには、あいだにはさまった自分自身の器の小ささや導体としての通りの悪さによって受けとったものを縮減したり、情報を「汚したり」しないように、とにかく透明感のある状態を維持することが必要である。

 

私の理解が足りないことによって、私がリレーする「次の人」が困る、という状況に立ち至ってはじめて、私はそれまでとまったく違う注意力をもって先生のお話を聴くようになった。
 それまでは「これは、わかる。これはわからない」というふうに自分自身をスクリーンにして、「とりあえず、わかることからきちきちと片付けよう」というふうに稽古していた。
ところが弟子ができると、「これはわからない」と放っておくわけにはゆかない。
 私には師匠がいるから、たとえ「わからない」ことでも、稽古のときに先生に言われるままに身体を動かしていれば、それなりに「何か」が身についた(はずである)。
 けれども、私が「わからない」から「やらない」というスクリーニングをかけてしまうと、「それ」はもう次世代には継承されない。
弟子を持つというのは「わからないこと」でも次世代に伝えなければならないという切羽詰まったポジションに立つことである。
 何しろ「よくわからないこと」を伝えるわけであるから、こちらも必死である。
 自前のフレームワークに落とし込んではならない。それでは古諺にいう「寝台に合わせて足を切る」ことになる。
 聴いたままを伝え、見たままの動きを再現しようとするしかない。
 その状態が「良導体」というありようである。

 そして、「エンドユーザー弟子」から「パッサー弟子」の立場に移行したときに、先生の送ってくる波動がいきなり「びりびり」と感じられるようになったのである。
 考えてみれば当然のことである。
 波動の本性は「伝播すること」である。
 そこでデッドエンドであるような個体に波動を送ってもしかたがない。

 
 先生の教えを独占しようとしていたときには伝わらなかった波動が、先生の教えを次にパスしなければと思ったときにはじめて烈しく私の身体を揺り動かし始めたのである。
「波動」ということばをつかったけれど、この「 」の中にはどんな言葉でも代入できる。
「愛」でもいい、「言葉」でもいい、「お金」でもいい。
 この三つはレヴィ=ストロースが「コミュニケーションの三つのレベル」という言い方で指示したものだ。
 親族、言語、経済活動。
 それらの人間的諸活動はいずれも私たちに「良導体であれ」ということを指示している。
 私たちが欲するものは、それを他人に与えることによってしか手に入れることができない。
 人間はそのように構造化されている。
 あるいは、そのように構造化されているものだけを「人間」と呼ぶのである。