あなたにとって、本って何ですか?

 今日は、図書館について某取材を受ける。図書室利用は4年生。雨だったので、なわとびが出来ず、みんな早めに図書室に集まり、8時5分前には返却・貸し出しを終え、全員が着席できていた。

 たくさんの的を射た質問がぽんぽんと飛び出し、とても心地よかった。最終的に
「どうして、このような(読書に関して)機能する図書館になったのか?」という点に絞られたような気がする。学校としては「教育課程上に位置付ける」「選書の工夫」の2点のみ。これができれば、「図書館」「図書館」と騒がなくても、読書の日常化はかなり進むと思っている。
 
 最後の質問が「(私にとって)本って何ですか?」だった。いきなりの直球で、20秒は沈黙してしまった。

 おまけ
 昨日は帰宅が遅くなるので「寄せ鍋を作るように」言って出掛けたのに、適当にみそ汁等でごまかした夕飯にしたらしい。それを聞いてとても不機嫌になった母(私)の姿に殺気(?)を感じたらしく、今日は帰宅したら(何も言ってないのに)昨日食べるはずだった「寄せ鍋」をきょうだい3人で仲良く食べていた。

 と書いて、内田先生日記を読んで「さあ、仕事」と思ったら、あらら、これは引用ね。

 

・・・だから、母親は自分のこどもに「ふつう」になることを強く求める。個性の発現よりはむしろ個性の抑止を求める。できるだけ大勢に逆らわず、群れの中で「悪目立ち」しない個体にとどまることを求める。それは「自分の子どもは弱い」という生物学的確信から導かれる育児方針である。
私はこの母親の育児戦略は太古的な起源を持つものだろうと思う。自分たちの穏やかな生活はいつ「超越的に邪悪なもの」の闖入によって崩壊するか知れないという「システム・クラッシュ」への暗鬱な予感が母親の育児戦略のうちには漂っている。私はこれを「荒天型育児」と呼びたいと思う。
これに対して、父親の育児戦略は「晴天モデル」である。
父親ももちろん自分の子どもが「弱い」という起点においては母親と共通するが、そのあとが違う。父親は子どもを「群れの中での相対的強者」たらしめることを育児の目的とする傾向がある。子ども同士の競争で勝ち残ること。それが父親の子育ての目標である。
 現代日本の育児戦略に異常が生じていることは、どなたも分かっているはずであるが、どこに異常があるのかはよく見えない。これは父親主導の「晴天型モデル」がドミナントな育児戦略となって、母親主導の「荒天型モデル」が発言力を失ってきたことの結果だと私は見ている。つまり、「システム内競争」に育児リソースの過半が注がれ、「システム・クラッシュのときに生き残るための資質の開発」にはほとんどリソースが割かれないということである。

 太字はkoyatteru

私は、子どもに小さい頃から「ふつうで良いから。」と言い続けた。
(そうしたら小学生の頃「大きくなったら、ふつうの人になる!!」ときっぱり言われ少し慌てたけど・・。)今でも普通でいい!と思っている。
 自分の周りの人と協調し、心穏やかに日常の送れる生活を何より大切にして欲しいと思っています。