体育の日 ではなくなったけれど・・

 今日は晴れるはずの「10月10日」の通り、秋晴れのよい天気だった。午後は、スポーツテスト<ソフトボール投げ>の判定を行う。
 
 私のソフトボール投げの思い出は、神戸市の教員採用試験。ペーパーテストが本当に難しく、問題集3冊をこなしていったのに、歯が立たず・・今でも覚えている問題は、①さくらの葉っぱを書く(周辺をギザギザに書くこと!)のと②国際障害者年(だったはず)の序文の穴埋め問題・・分かるわけもなく・・だめかな?と思ったんだけど、唯一の望みは「ソフトボール投げ」。ファウルの人が多い中、遠くに遠くに飛んだ。その時に、「小学校の女の先生って、もしかしてみんなお嬢様?」って密かに思ったのを今でも強烈に覚えている。てなことを思い出す。

閑話休題 

課題文集頻出現代文を読む (駿台受験シリーズ)

課題文集頻出現代文を読む (駿台受験シリーズ)

の中に内田先生の
「おじさん」的思考

「おじさん」的思考

の中の一文が載っている。

 

すぐれた読書は私たちを見知らぬ風景の中へ連れ出す。その風景があまりに強烈なので、私たちはもう自分の住み慣れた世界に以前のようにしっくりなじむことができない。そうやって、さらに見知らぬ世界に分け入るのだけれど、必ず「あ、ここから先へは行けない」という点にたどりつく。そして、ふたたび「もとの世界」に戻ってきたとき、私たちは見慣れたはずの風景がそれまでとは別の光で輝いているのを知るのである。
 若い人に必要なのは、この終わりなき自己解体と自己再生であると私は思う。愛したものを憎むようになり、いちどは憎んだものを再び受け入れる、という仕方で、私たちは少しずつ成長してゆく。そのためには幼いときから「異界」と「他者」に、書物を介して出会うことが絶対に必要なのだ。どれほどすぐれた物語であろうと、『ドラえもん』だけでひとは大人になることはできない。

 私は、これほど明確に読書の必要性を書いてくれた文章を他に知らない。たいした本は読んでこなかったけれど、「もとの世界に戻る」という感覚は非常によく分かる。
 
 私が図書館の仕事をするのは、いつかそういう書物に出会うであろう可能性を限りなく広げるためであるのだと思う。