東京 第6回 VHS 内田洋行(潮見)

 京葉線へ乗るのは、10年前の家族でのディズニーランド行き以来だと気がつく。
 オプショナルツアーとして内田洋行の展示を見せていただく。近未来のオフィスで、初めての修学旅行で東京へ来た中学生の時のように「へえ〜、すごい」の連続であった。快適な仕事場が欲しいと、帰宅してから部屋の模様替えを検討する。
 
 今回の後半は、「役割分担論」のワークショップで、自分の立ち位置を確認する。そして、高橋先生のVHS的考え方(周りを巻き込む)で、毎回東京まで足を運ぶ理由がよく分かった。

 帰ってから、今日の話って内田先生が繰り返し書いていることとどこかで繋がっている・・・というのが、どこだか思い出せず、更新が遅れる・・。

 どの本だったかと、本を探すも、なぜか一カ所に内田樹がなく見つからない。内田洋行ショールームで見た、近未来の図書室が自宅に欲しいとこれほど思ったことはない・・。
 
 とりあえず

知に働けば蔵が建つ

知に働けば蔵が建つ

を読み返す。

 

「共同生活への意志」それが共同体を可能にする。共同生活への意志と能力を備えたもの、それが「市民(キビス)」である。
 市民の資格は生得的な条件によって得られるものではない。みずからのうちに「貴族」の資格を感じるもの、自分のためにより多くの責務とより少ない特権を要請するもの、それがオルガテの定義する「市民」である。
 市民の条件は血統にも権力にも資産にも文化資本にもない。
 それはただ「自分と異質な他者との共同体を構成することのできる」能力、対話する力を持つこと、ただそれだけである。 

太字はkoyataru

 

大衆の本質は「自己満足・自己肯定」のうちにある。ということは、「本物の貴族」の特質とは、つねにおのれのうちに「埋めがたい欠落感」を抱いているということになる。
 「埋めがたい欠落感」を抱いている人間だけがそれを埋めようとする。「ことばにならない思い」を抱いている人間だけがそれを「ことばにしよう」とする。
 つまり、オルガテ的「貴族」とは(ニーチェの「貴族」定義とここで完全に逆になるのだが)、自己に満足せず、どうあっても自己を肯定しきれない人間のことなのである。
 自分のことがよくわからず、自分が何を考えているのか、何を欲望しているのか確信できず、それゆえにそれを知ろうと望むこと、それが「努力する」ということである。

太字はkoyataru

 いつもVHSは刺激的で、普段忙しさに身を任せている自分の軸を再認識させてくれる場所である・・と今回も思う。

 タクシーで自宅まで帰りながら、地域のお祭りだと思い出し、吸いこまれるように小・中の役員が集う広場へ行く。役員でも何でもないのに、なぜか違和感なく飲み・食べる。初めて「夏休み」を実感する。