3年生「目次と索引」の授業

 先週やった授業と同じ授業を違うクラスで実施。今日は、「さくいん」という言葉を誰も知らなかったが、図鑑の後ろの「索引」を見せると、ほとんどの子どもが「使ったことある!!」と大合唱だった。だから、「索引のページにその言葉がありましたか?」との質問に「ない」と答えたのは、ほとんどいなかった。今年、小学館の図鑑『ネオ』シリーズを全冊新しく購入し、子どもがよく利用しているので、こんなに分かるんだろうか?自宅に持っていると答えた子もかなりいた。
 「さくいん」の意味を1年生か2年生に教えてあげるとしたら、何と言って教えますか?
と聞くと、「調べたいことが、あいうえお順にのっていてるもの」と答えた子どもがいる。「あいうえお順」のところで、「五十音順っていうんだよね」とのつぶやき。よく聞いている。
 明日は4年生。どういう意見がでるか、とても楽しみ。
 
 授業後、本の貸し出し、返却。1,2年生の時に、担任からの読み聞かせを日常的に受け、教室に絵本も多く揃っていたおかげで、本当にお話の本をぐいぐい読む。ありがとうね、Y子先生!それに、1,2,3年の教室がある同じフロアに図書室がある環境に感謝。いわゆる「読める」と思う子どもの今日のカウントが96冊だった。4、5,6年だって、一つ下のフロアですから恵まれてます。

 今日の1冊
私が担任を持って、子どもとコミュニュケーションを取るためにまず読む本が

ねえ、どれが いい? (児童図書館・絵本の部屋)

ねえ、どれが いい? (児童図書館・絵本の部屋)

だけど、この
どんどんきいて!‐ASK ME!

どんどんきいて!‐ASK ME!

も一緒に楽しめる本。副題が「語りかけ絵本」となっていて、見開きの左側に語りかけ文、右側にその写真がついている。例えば、「そらに うかんでいる どうぶつを みたことが ある?」とか、「どうやって ひとを わらわせる?」などなど。15センチ四方のコンパクトな本なので、写真は教室で「実物投影機」で見せるといいです。


今日の内田先生
 

「コミュニケーション失調症候群」
グレゴリー・ベイトソンは『精神の生態学』の中で、コミュニケーション失調の端的な徴候として「何を言うつもりでその言葉を言っているのかが判定できない」ことを挙げている。
 例えば、「今日は何をするつもり?」という問いかけを「昨日みたいなバカな真似は止めてくれよ」という「問責」と取るか、「ねえ、いいことしない?」という性的な「誘い」と取るか、それとも語義通りに「質問」しているのかが判定できないのがコミュニケーション失調の症候である。
 私たちは、ふだんは前後の文脈や表情やみぶりや声のトーンやあるいは「オーラ」によって、多数の解釈可能性のうちから、もっとも適切な解釈を瞬時のうちに採用している。「暖かい波動」や「優しい波動」が身体的なレベルではっきりと受信されていれば、言語的メッセージが解釈次第では聴き手を傷つけるコンテンツを含んでいても、受信者はそのような解釈を採用しない。だが、どうやらこの非言語的メッセージの送受信能力が近年とみに低下しているように私には思われるのである。
(中略)
 結果的に 私たちの社会はこれから自分宛のメッセージが含む複数の解釈可能性の中から、自分にとって最も不快な解釈を選択することを政治的に正しく、知的なふるまいとみなす人間たちを量産してゆくことになるだろう。
 それによって社会が住みやすくなるとか、人々のコミュニケーション能力が向上するだろうという予想に私は与しない。

太字はkoyateru
教務と言う仕事は、ひたすら調整あるのみ、といった感がある。そこでは、内田先生いうところの非言語的メッセージの送受信能力が何より大切である・・と思い続けた2年間であった。

昨日の内田先生
 

ふつう私たちは「専門的知識を備えた人間が指導しなければ教育は成立しない」と考えがちだが、そういうものではない。
 仮説の提示と挙証、その反証という手順についてルールをわきまえたレフェリーさえいれば、どのような分野の主題についても学生たちは実に多くのことを学ぶことができる。逆に、知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている限り、学生はたぶん何も身に付けることができない。

太字はkoyateru