文は人なり

 昨日の内田先生の日記は「文体について」というもので、

文体というのはそれほど軽いものではない。
それは読み手にフィジカルに、ダイレクトに「触れる」ものである。
読み手と書き手の「関係」を瞬間的に決定してしまうものである。
だから、ラカンは『エクリ』の冒頭にこう書いた。
Le style c'est l’homme( à qui l’on s’adresse).
「文は(宛先の)人なり」
文体は、それがどのような人にどのように差し出されているかをあらわに示す。
書き手が読み手に対してどのような種類の距離感や親疎の感覚や敬意や興味を抱いているかを表すのは文体である。コンテンツではない。
私が講義でもっとも心がけているのは、「どのような語り口でことばを差し出すか」ということである。
 適切に文体が選択されていれば、どれほど難解なコンテンツであれ、あるいはどれほど無内容なコンテンツであれ、それは読み手に「届く」。
 文体の選択を誤ると、どれほど平明なコンテンツであっても、誰にも届かない。
ほとんどそういうこと「だけ」を書き続けてきた人間が文体にこだわるのは当然のことではあるまいか。

と語っています。「文は人なり」という言葉をいつ頃知ったかは忘れましたが、多分、中学か高校時代で、私の好きな言葉です。ですから、人の書いた文を読むときに「自分に届いているか」というのを結構気にします。万人向けの文でも、どこかしらにその人となりの感じられる文があって、自分に届くと「ぐっと親しみ」がわきます。
 それから、「講義でもっとも心がけているのは、「どのような語り口でことばを差し出すか」ということである。」というのは、小学校の授業でも、子育て中の自分の子供に対しても同じです。
 よく、教師が「ちゃんと言ったのに」とか、親が「いつもいつも言ってるんですけど」と言いながら、全然子供に届いてないのは、「文体の選択を誤った」に他ならないからなのでしょう。

 午後、元同僚の先生方との食事会。2年分の近況報告を語りつくすのに、延々4時間。何人かの方にこのブログのアドレス入りの名刺を渡したら、夜「PCだと(目が疲れて)見にくいので)、全部プリントアウトしたら、24枚になった。」との電話をもらう。「文は人なり」に同感!と思ったばかりなので、「そんな・・・、さらっと読み流してもらう日記ですから・・」と慌てる。「ちゃんと、届いたのだろうか?」

 今から、ブックオフ

夏と花火と私の死体 (JUMP jBOOKS)

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を読む。「ヒカルの碁」は何年か前、長男の友人に全巻借りて読んだ。その友人の弟は、このマンガで碁にはまり、碁会所に出入りし、多くの大会に出場したそうです。
「JUMP J BOOKS」を今回10冊近く購入したので、子供がどう読むか楽しみ。

今のカウントは13333でした。