ネットの力

 今日は、友人に「恥ずかしながら、ブログ開設・・」とお知らせメールを送ってちょうど4ヶ月で、アクセスが10000を越えました。私としては「誰が読んでるんだろう?」と本当に不思議です。以前も書いたけど、顔の分かる読者は20数名。特に私の思い込みかもしれませんが、「読み聞かせ」に興味のある方で毎日PCを開いて(まあ携帯でも読めますが)読む人の割合が高いとは思えないからです。
 でも逆に、そういう私も1年半前までは、PCは仕事の文書作成のみで、HPを持っている人とは、お友達になれそうもない!と信じていたのが、この変わり様ですから、一度この便利さを知ってしまえば、<もう離れらない>と思った本好きもたくさんいらっしゃるのでしょう。どきどきしながら書いていた初心に帰り、これからも続けたいと思います。

 SFセレクション5巻、赤川次郎「悪夢の果て」を読んでいたら
『子は親の所有物ではない。親がリモコンで自由に動かせるオモチャでもない。俺が加わった、あの<教育改革審議会>は、何をしようとしたのか。(中略)「二十一世紀の教育」?−お笑いぐさだ!二十世紀に、とっくに人生の盛りを置いて来た年寄りばかりが、「二十一世紀」を考えようというのだ。しかも、当の子供たちー教育を受ける権利を持つ子供たちの声は、どこにもない。聞こうともしない。結局、俺たちは、「大人にとって都合のいい子供」を作ろうとしたのだ。』
という一文があった。一番最近のエッセーを読んだときも思ったけど、現在の日本の状況に赤川さんは、かなりな「怒り」を持っていらっしゃると感じます。それをホラーという形で表現されているのでしょうか?
 昨年だったかな

拒否する教室 (小学館文庫)

拒否する教室 (小学館文庫)

を読んだときも、そう感じました。これは、文庫紹介文には
「男が、女が、恐怖に走る。現代の恐怖を描く“当節怪談事情”シリーズ待望の文庫化第1弾」とあります。こちらも、お勧めです。

今日の内田先生
 ゼミの卒業生4人が遊びに来て、<世の「サラリーマン」というのものがいかによく働くか知って仰天したという驚きの報告であった。>というのを受け、
おそらく「自己を他者への供物として捧げ、他者によって貪り食われる」という事況そのもののうちに強烈な快感を覚える能力を得たことによって人類は他の霊長類と分岐したのであろう。そこが人間とサルの違いであり、違いはほとんど「そこだけ」にしかない。
だから、自己を供物として捧げることを拒む人間は定義において「人間」ではない。
 
 そうですよね、組織がきちんと「人間」で構成されているなら本当にストレスなしです。家族や地域や職場やすべてに当てはまると思います。そういう私も「人間」になるよう日々奮闘中。