ウソの作文

 今日は、朝会のため読み聞かせなし。そこで、朝会で「アンパンマン」の話を聞いたので、その話を書くつもりが、内田先生のブログが「嘘の作文」の話で、しかも「板倉聖宣」の名前が出てきているので予定変更して、今日は「嘘の作文」について。
 
 まず、今日の内田先生の言葉は、

<学生の作文は、評価する教員の方を向いて、その相手に合わせて「自分が思ってい ること」を語る。それは相手が教師である場合にのみ選択的に想起される「自分が思っていること」である(このネタは先日このHPにTBしてくださった方から教えていただいた。さっそく板倉聖宣先生の本も買いました。ご教示に感謝します)>


 で、手元にある板倉聖宣の本で「嘘の作文」について探すが見つからず。ならばと記憶を辿り、1983年10月「楽しい授業」の<座談会>「ウソと教育」を見つける。
 板倉さんの言葉として
「作文が書けないとか、絵が描けないというのは、字を知らないとか、筆が持てないと いうことを別にすれば、<ウソをつきたくない>という潔癖さがあると思うな。だから<表現の自由を得るためのウソ>ということが問題になる。前からぼくは作文について関心があったんですけど、<事実を書く>というのすごくむずかしいんだよ。(中略)自分の認識したものを表現しようとすると、表現しきれないんですね。だから、几帳面な人は絶対に書けなくなる。(中略)だから、<本当のことを書きなさい>というと、なかなか書けないんですね。逆に<ウソのことを書きなさい>というとホントのことが書ける。<ウソの作文>の面白さは、そういうことだね。<ウソだ>ということで安心してホントの事実を 書く場面もあるし、ホントの気持ちーふだん抑圧している夢とかタブーを書くこともある。」

 私は<ウソの作文>は何回か書かせ、6年生を持った時は「8年後の20歳、成人式の朝の作文」という題にした。成人式には小学校6年の担任も招待されるハズなので渡す予定でいる。(という話を今日職場でしてたら、「招待されなかった」という先生がいた。「そんなはずはない」という別口からの合の手も入り、・・・。真相は不明)
 何回かは書かせるうちに、20歳って学生だから、そんなにおもしろくないことに気づき、5年前の5年生には「20年後の私」ということにした。11歳+20歳=31歳の作文である。先日読み返したら、一番最後に私の作文があった。「そうか、自分の20年後を書きたかったのかもしれない。」と思い出す。

で、今日は私の5年前に書いた「20年後の作文」

 2020年1月、今年の正月も穏やかに迎えることができ幸せである。毎年正月は箱根山から登る初日の出を見ることにして20年がたった。(中略)
 私の1日は朝の散歩から始まる。調子がいいと少し走ってみたりする。散歩が終わるとお菓子を作ったり、お裁縫をしたりする。お菓子つくりは趣味が高じて近所のおばさん
たちとワイワイ作ることも多い。でもお菓子はカロリーが高く太ってきたので、低カロリーのお菓子つくりの研究を重ねている。
 午後は、一転スポーツの時間である。卓球や水泳、時には近くのバッテイグセンターへ行くこともある。こうしてのんびりした1日が終わる。
 でも、お正月こそのんびり自宅で過ごすが、あとは1年中どこにいるか分からない生活をしている。とにかく、どこでも言ってみたい所が決まるとすぐ出かけてしまう。家族が「もう年なんだから」とか言うけど、日本は異常な高年齢社会になっているので、60歳なんて言っても「あら、若いわね」なんて言われてしまうくらいなのだ。
 さて、3人の子どもは社会人になっている。「どこに住んでもいい」と親に言われて育ったので、自分で住む所を決めた。・・・・・(後略)

 書いた作文の発表を私もしたので、子供用に平易に書いているけど、大体私の願望はすべて盛り込まれている。
①子どもは自立、一緒に住まない。
②健康でいる。
③世界中を旅したい。
本当はあと1つ大切なことを書いていないけど、それは内緒。
 
18才の大学1年の時には、クラブの名簿作り担当が自分たちだったので、その項目の中にやっぱり「10年後の自分」というのを入れた。私は当然「28才2児の母」って書いたんだけど、クラブの多くの人から「そんなこと考えてるの?」って聞かれた。
 まあ、結局いつも夢みて生きてるっていうことでしょうか?この生き方って結構いいですよ。だってしんどいことがあっても、「いつかは、自分のイメージするようになるんだから」って思ってられますから!?