お裁縫

 来週、2年間の寮生活を終え長男が帰宅することを思い出し、あわてる。とりあえず、この1年体調不良と忙しい仕事を言い訳に手付かずだった裁縫の部屋(ただのミシンの置いてある和室)の片付けに入る。まず来年度1年間分の子どもが学校へ持って行くぞうきんを10枚近く縫う。次に、ボビンの糸巻き、白糸と黒糸を5つずつぐらい。あと、毛布のふちほつれかがり、ついでに枕カバー3つを新たに縫い・・・・。そんなこんなをしていたら、次女(小6)が、鈎針を見つける。「私も編みたい」と言うのを聞いて(もしかして、ここでお裁縫や編み物を教えておかないと、将来「お母さん頼むね!」という)最悪の事態になりかねないことに気が付く。私の周辺では「(自分の子ども用の裁縫を)「私できないから、母にやってもらった!」と、さも当然のようにおっしゃる方が多い。絶対にそうなってはいけないと思った1日でした。とりあえず、春と夏に1週間ずつでもやらせるかな?

読了

バッテリー〈6〉(教育画劇の創作文学)

バッテリー〈6〉(教育画劇の創作文学)

1巻から5巻はまとめて読んだので、この6巻まで2年待ちました。最終巻だと思うと、一気には読めず、最後の対決への伏線がどこかであるのでは・・と行きつもどりつしながらの読書。でも決戦が始まってあと30ページ。もしかして対決前に終わるよ〜って思ったら、・・・(読んでない人に悪いので書きません。)どの巻より、あさのさんの思いが大きいかなと思いました。

例えば、瑞垣が門脇秀吾を語っている場面では、
「特権だな、天才の。苦難は山ほどあるだろう。しかし自由だ。世間とか常識とか理想像とか期待とか、らしさとかあるべき姿とか、名誉とか我らの誇りと讃えられることとか、そんな無意味な、しかしびっしりと誰の周りにもはりめぐらされたネットから自由だ。あまえは、自分の力で食いちぎり、突破し、自由を手にするだろう。飛翔して、おれなど想像もできない世界を見るのだろう。強靭な爪と牙、そして翼か。・・・・」

監督の戸村が試合前の子どもを見ながら
「まだ成長のただなかにある肉体と魂を持って、マウンドへ内野へ外野へと少年たちが走る。もうあの中へは入れない。少年という時期は、遠く過ぎ去った。責任、仕事、管理、立場、建前、世間。大人になり多くのものが身にまといついた。彼らのように無心に無責任に無謀にひたむきに、野球にむかいあうことは、もうできない。しかし、関わることはできる。彼らに関わり、野球に関わり・・大人としてかかわり続けることはできる。それを教えてもらった。」などなど。

「もうあの中へは入れない」って私も子どもを見てしょっちゅう思います。でも、だからこそかかわり続けたいとも思い、毎日を過ごしているのでしょう。

この間読んだ「森絵都の本」であさのあつこさんと対談をしていて、その中であさのさんはこのバッテリーについて、
「できだけおとなの干渉とか意味とか、そういうのを避けて、少年たちだけの世界を描きたかったんです。だから、『爽やかな友情物語』なんていわれるとなんだかな〜と思う。」と語っています。多くの子どもがこの作品にひきつけられるのは、ありきたりの言葉になるけれど、少年たちが読んだ子どもの中で息づいていくのが実感できるからなのでしょう。本校で6年の推薦図書にしたら、昨年は「バッテリー」ファンが多くいました。「先生、巧が甲子園まで行くとしたら15巻にはなるね。」って言ってくれた子がいたけど、(1年で5巻だから3年で15巻)濃い6巻だったからきっと満足すると思います。

読了
「人はなぜ、学歴にこだわるのか」
なかなか奥の深い話が続き、普段意識しないだけに考えさせられた。
 私が初めて、学歴を意識したのは、新採で勤務した小学校2年生の子どもにいきなり「先生の出た大学はどこですか?」と聞かれた時。神戸の学校の先生は、20年前は多分3割から4割くらいがが神戸大。(神戸大は教育学部がなくなったので今はどうか分かりません)で「神戸大かどうか」のチェックかなと思ったけど、「言っても分からない大学だから」と答えず。クラスの子どもに大学を聞かれたのは、これが最初で最後。でも2年生の最初だからほとんど1年生。担任の大学が家庭で話題になるなんて、当時の私には、(今でもですが)考えられませんでした。神戸時代には、「神戸大のメンバーオンリー」のお店にも連れって行ってもらい、そうかこういう世界があるのかと、世間知らずの私は、びっくり。
 本文の中に
「・・・しかしながら、優秀であっても、仕事はできなかった。奇妙な話だと思うかもしれないが、事実なのだから仕方がない。ある種の仕事では、個人の資質の優秀さと、その仕事での有能さはまったく無縁なのだ」
という、放送局のディレクターの話があり、実際教師の日常の仕事も似たところがあるかな・・・・。