ブックリスト パート2

 結局、PCは4日つながらず、寮に入っている長男にSOS。私は20数回チャレンジしたはずなのに、簡単につながる・・・。本当に情けナイ。

2月5日(土)
読了
『「わからない」という方法』橋本治
 4年前の本であるが、私にとって今読んでよかった!の本。こういうのを「本が呼んだ」っていうのでしょうか?特に次の一章は、深く深く腑に落ちた。

 ー「へん」と「信念」が作るテコの原理
 一方の「へんじゃない」の持つ力は、「排除する」である。しかし、残る一方の「へん」の力は、「ひっくり返す」である。自分の特性を手放さずにいれば「へん」になり、しかしその「へん」は、保持された特性をゆっくり熟成してくれる。熟成した結果、「へん」には、イーヴンである「へんじゃない」をひっくり返せるだけの力が宿る。どちらがおトクかは明らかなようなものだろう。
 「へん」はひっくり返す。しかし「へんじゃない」はひっくり返される。「へん」と「へんじゃない」とはこのような違いがある。「へん」の役割はここにあって、「へん」とは、実のところ、「テコの支点」となるようなものである。
 「硬直した常識」は、時の流れの中でいつか簡単にひっくり返されてしまうが、それを可能する要素の一つが「へん」で、ただ宙に浮いているだけのニュートラルな「へん」は、時として、「テコの支点」の作用を果たしてしまう。
 テコによって動かされるものは、「硬直して古くなった多数派の常識=へんじゃない」である。「へん」はそれを動かす「テコの支点」だが、その支点に力を加えて動かす「テコ」となるものは、一体なんなのか?それは、「へんと言われても揺らがない信念」である。
 「へんとへんじゃないはイーヴンである」という考え方自体が、既にしてもう「信念」に近いものだが、「信念」というものはどのようにして生まれるのか?「自分」なるものの特性を身体的に実感した結果に登場するのが、「信念」というものである。

 そうか、私の「信念」は【「自分」なるものの特性を身体的に実感した結果】だったんだね。

それから、「ドラマの勉強」の項で
 ・・・十代の頃の記憶は記憶として、それがその後のになってもまだ「感動」として通用するものかどうかはわからない。(中略)
 話は映画に限らない。本だって同じである。しかし、そのことがあまり理解されないのは、人が「若い時の記憶」だけを頼りにしてうっかり生きてしまうからである。もう一度読み直せばいいものを、その「感動の記憶」が健在であれば、人は「読み直して点検しよう」などという気にはならない。そうして、時代からずれていくのである。私はその危険に気がついて、そうなりたくないと思った。ビデオで昔の映画の点検をし始めたのはそのためである。
 それは、かっての感動を消滅させることにもなりかねない、危険な作業である。しかし私には、「過去の感動」より「現在の感動」の方が重要だた。作家の感受性が「現在の感動」とシンクロせず、「過去の感動」とだけシンクロしてもしょうがないからである。それは「老いた」ということであって、三十代の私は「過去に生きる老人」になんかなりたくなかった。だから私は、「昔見ておもしろいと思った映画は、今でもまだおもしろいのか?」という作業に没頭し始めた。
 
 私も現場にいる人間として「過去に生きる老人」にはなりたくないので、
「怖いなあ〜」と思いながら、少しずつ読んでます。でも2年前に「宝島」を読んで、一本足の船長が全然怖くなくて、びっくり。小3の時は夢に出てきそうなほど怖かったのに。それから、「小公女」「小公子」かな?あと「ズッコケ50巻」記念して、「50巻一気読み」というのも、自分で企画しました。

2月6日(日)
 終日、この1年間児童書案内執筆をやることになった友人と「ああだ、こうだ」と本の話。でも作者や書名が本当に「すぐ」に出てこず、ガッカリ。でも、そのためにこのグログやってる・・って思うことにしました。 
 

のどから あいうえお

のどから あいうえお

は楽しそう。
 夕方、市立図書館。予約してあった「バッテリーⅥ」(あさのあつこ)が入ったので取りに行く。ついでに「ビッグブック」がどれぐらいあるかを見せてもらう。「ポプラ」で出した4冊が入っていない。「予約しないと入れられない」と言われたので、今度予約しよう。