再び内田樹

 朝1番に内田樹先生のブログを読む。そこで、もうすぐ、出版される
『先生はえらい』について、以下の文を読み、爆笑してしまう。
(隣で中2の長女に、PCに向かって笑うってかなりあやしいと言われる)

以下抜粋
《 第二に、「先生」をほめる本というのは払底して久しい。
現代日本においては学校と教師と文部科学省の悪口はいくら言っても誰も咎めない、ということがメディアの「常識」となっている。
常識となったのには、それなりに悲しい「前史」というものがあるので誰を責めることもできぬのであるが、それにしても、そろそろ『学校は愉しい』とか『先生はえらい』とか『がんばれ!文部科学省』とかいう本が出てこないと世論の行き過ぎに対する補正というものができないのではないかと私は危ぶむのである(文部科学省から要請があれば、私とて『がんばれ!文部科学省』の企画を出版社にオッファーするにやぶさかではない。神戸女学院大学への補助金支給についてご高配いただけるのであれば、「やぶさかでない」を「前向きに検討」に書き換えてもいい)。
当然、そのような励ましのことばに飢えている日本中の「先生」たちがこのタイトルを書店で見たときの反応は想像に難くない。
私のようなリアルでクールな人間でさえ、仮に書店で『仏文学者は頭がいい』とか『合気道家に恋をして♡』というようなタイトルの本を見た場合には、とりあえず内容にかかわらず「これは購入して内容の当否について仔細な検討を加えねばなるまい」という決断をためらうことはないであろう。
日本中の学校の先生のおおかたの自制心を私と同程度と想定するならば、これは「非常にキャッチー」なタイトルと申し上げてもよろしいかと思う。それゆえ、日教組文部科学省が揃って本書を「指定推薦図書」にするという可能性も完全には排除できない。
 「先生」について書かれた本で、日教組の悪口も文部科学省の悪口も書いていない本などというものはおそらく現存しないからである。それどころか、この本には生徒学生諸君の素行を難じることばも、家庭教育の不備を憂うことばも、自民党文教族咎めることばも、ひとつとして書かれていないのである。そのような教育論はきわめてレアであると申し上げてよろしいかと思う。では、いったいこの本は何を難じているかというと、驚くべきことに、何も批判していないのである!
そのような教育論をあなたは読んだことがあるだろうか。私はない。
 既存のいかなる制度文物をも批判せずになお成り立つ教育論とはいかなるものか。私だっていきなりそう訊かれたら、見当もつかない。
書いた本人が見当もつかない本なのであるから、まだ読んでいない人々 がその内容を忖度することは絶望的に困難であろう。
そういう本をあなたは読まずに立ち去ることができるだろうか?
私ならちょっと読んでみたい。本屋で立ち読みするくらいのことはしてもよい。そして、この本のたちの悪いところは、本屋で立ち読みすると、そのままあっというまに最後まで読めてしまうことなのである(なにしろ薄いから)。それでは本が売れないではないか、とご懸念される方もおられるであろう。ご心配には及ばない。最後まで読み終えて深いため息をついたときには、この本の最初の方には何が書いてあったのか、ぜんぜん思い出せないように書物は構造化されているのである。》

多分私は「学校が愉しい。」はっきりと「愉しい」って言える教員がどれだけいるかは・・・不明である。早く読みたい!

ということで、午前中の予定を変更し、飛ばし読みだった

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

を読む。あとがきによると、内田先生のHP開設は1999年。私が出会ったのは、2003年。1週間かかって読み、高橋源一郎さんのあとがきにあるように「こんな人を、ずっとずっと待っていた。」とつぶやく。私は多分、高校生の頃から、ずっと誰かを探していた。世の中の仕組みをきちんと書いてくれる人を。待った甲斐がありました!一番共感したのは「ファミニズム」の項。

購入

「わからない」という方法 (集英社新書)

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19:00〜卓球練習。昨年ラケットを握ったのは2回。土曜日の夕方は、本屋→体育館というパターンでいきたい。私が唯一人様に誇れることは、40才の時、体育館で体力テストを受けたら、結果が20代後半男性並みと出たことだけど、でも今なら年齢相応だろうな〜。ガクッと落ちたって実感するってって悲しい。