資料検索の日々

 仕事部屋は、ここ2年ほどで急激に増えた仕事用書籍であふれかえっており、それがもちろん10進分類なんてされていないものだから、「あったはずがない」探し物の時間ばかりかかる日々を過ごしている。
 
 今日も「あそこのあの本に・・・」と探していたら、なぜか内田先生日記をプレントアウトしたファイル発見。よっぽど気にいったらしい。
 
 お題は「お正月向き大学人」

 大阪大学学長の鷲田先生との対談です。


 

対談は「幼児化する日本人をどうやって成熟に導くのか」というような包括的なテーマを与えられて、それをめぐるものであった。
「成熟」が主題になるという傾向は私のたいへんよろこぶところである。
成熟とことの理非は別の次元に属する。
どれほど理路整然と「正しいこと」を言い募っても、「こどもの言い分」はなかなか世間に通らない。
それは「子ども」が自分たちが拠って立つところの「システム」に対してもっぱらその影響をこうむる「被害者・受苦者」という立ち位置を無意識のうちに先取するからである。
つねづね申し上げているように、年齢や地位にかかわらず、「システム」に対して「被害者・受苦者」のポジションを無意識に先取するものを「子ども」と呼ぶ。
「システム」の不都合に際会したときに、とっさに「責任者出てこい!」という言葉が口に出るタイプの人はその年齢にかかわらず「子ども」である。

なぜならどのような「システム」にもその機能の全部をコントロールしている「責任者」などは存在しないからである。
「システムを全部コントロールしているもの」というのは、自分が被害者である以上どこかに自分の受苦から受益しているものがいるに違いないという理路から導かれる論理的な「仮象」である。
これを精神分析は〈父〉と呼ぶ。

 太字はkoyateru

このあと、今 20人に1人ぐらいになってしまった大人を5人に1人か、7人に1人にしようと書かれています。

 たまたま、今日夫と
「小学校4年生の国語教材 いわおの顔は、名作だった。」という話で盛り上がりましたが、この話も「ちゃんとした大人になる話」です。(いつか当時の教科書で読みたい。)

 何度か書いていますが、私の人生のテーマは小学校4年生10歳で感じた「ちゃんとした大人になる」ことなのだと思います。

 ですので、このような「大人」「成熟」に関する記事に反応し、私も大人のふるまいをしなければと気持ちを新たにするのです。