ケータイ小説 その後

 贔屓にしているサイトに翻訳家金原瑞人オフィシャルホームページがあります。そこで、ケータイ小説の話題があったので、興味のある方は、お読みください。全編 引用です。

 

(8月12日)
  カフカ」の章の最後の、カフカ自身の言葉がすっごくよくて、多少酔っていたこともあって、翻訳物の書評子・評論家として大活躍の豊崎由美さんにメールで送った。カフカの言葉は次の通り。
 
要するに、われわれが読むべきなのは、かみつかれたり刺されたりしたように感じる本だけだと思う。本を読んで、頭を一発殴られて目が覚めたように感じないなら、読む意味がどこにあるというのだ? 「幸せな気分になる」ために読む? 冗談じゃない。幸せな気分になりたいなら、本なんか一冊もないほうがいい。……必要なのは、最悪の不幸同然にわれわれをたたきのめす本……森に追放されたような気分にさせられる本であり……本とは、われわれの心の中の凍った海を打ち砕く斧でなければならない。


じつにカフカだと思う。これに対して、豊崎さんから次のような返事が。



良い言葉を教えてくださって、
ありがとうございます。

カフカに共感! です。
ケータイ小説しか読まない若い人は、
たとえば夏目漱石をなぜ読まないのかと訊かれると
「だって、うそくさいことしか書いてないんでしょ。
ほんとのことしか読みたくない」といいます。
「ほんとのこと」って一体なんだよ、
というツッコミは抑えるとして、
そういう人は
・自分の知ってることしか読みたくない。
・つまり、読書によって自分という檻から出たくない。
(読書くらい、自分という窮屈な檻から出るいい機会はないのに)
・知らないことは好きじゃない
・つまり、知りたくない。
・想像力を使いたくない。
残念です。
そういう人を一人でも多く、
カフカの言葉の世界へと引っぱり出したい。
そう思ってレビューしているのですが、
道は険しく多難です。
「本とは、われわれの心のなかの凍った海を打ち砕く斧でなければならない」
素晴らしい言葉ですね。
豊崎由美

これに対して、読者のモヒカン少女から返信があり、(長いので割愛)読む時間のある方は、
http://www.kanehara.jp/blog/index.htm(8月22日)をどうぞ。

その返信が以下の金原さんです。

 

ころで、ケータイ小説についての意見って様々でじつにおもしろい。豊崎さんは「×」、角田さんも「、今ケータイ小説を読んでいる人たちが非ケータイ小説を読むことにはつながっていかないと思う」というようなことをわりとはっきりいったという報告がきてたなあ。あ、これは京都での対談のときのことかもしれない。

想像力がある・ない、という論争もまた、面倒で、なぜかっていうと、ここでいう「想像力」とはなんぞや、という問題があるからだろうな。

たとえば、ケータイ小説はお湯の沸いてるヤカンを触って「熱い!」っていうようなもので、そこが若者にうけてると宮台真司氏が書いてたりして、その延長線上にあるような想像を、ポジティヴな意味での「想像力」と呼べるかどうか、ってことかな。

たぶん、豊崎さんなんかが考えている「想像力」っていうのは、ちょっと違うのかも知れない。ただ、豊崎さんも、ケータイ小説だけが想像力いらないといってるわけじゃなくて、一般小説でも××××の作品もそこに入っちゃうんだけど。

しかし一方、先月の森絵都伊藤たかみ対談では、ふたりとも「ケータイ小説から普通の小説へっていう流れはあるんじゃないか」といってたし。じつは、ぼくもそうだと思う。

ケータイ小説よむ子は、ケータイ小説じゃない小説を読んでみたいだろうし、本読んでる自分ってちょっと賢そうでかっけーじゃん?って少し思ってると思います。」という指摘は、その通りだと思う。また、その逆もありかも。

というか、じつは、ケータイ小説、これから思いもよらない進化をとげるような気がしている。あれだけの広がりと力を持ってきたら、次は細分化、専門化が進んでいって、「え!?」というものが出てくるよ。そのへんは、ゲームやライトノベルと同じ。

ケータイの町田康とか、ケータイの古川日出男みたいなのが出てくるのも時間の問題だね。



じつにカメレオン的な金原の返事なのであった。まあ、コウモリ的といえなくもないのだが、そのへんについての弁明はまた今度。