静岡

 赤木かん子さんによる「調べ学習」の授業4時間参観。午後は、打ち合わせ。
私の夏の課題の図書リストに「感想(一言コメント)」も入れるようにとのお言葉・・・(絶句)。多分今エクセルに500冊以上は入っていて、もう1度、参考リスト本をチェックすると倍近くになることは必至で、もう夏休みはない?「エクセルより、『アクセス』がいいよ。」と言われ・・・(再び絶句)。
 
 往復の電車で読了

モギ―ちいさな焼きもの師

モギ―ちいさな焼きもの師

昨年度の課題図書。訳者あとがきより
 

目標にむかってひたすら努力を続け、絶望の淵に立ってもなお希望を捨てないモギ。貧しいなかで人としての情けと誇りを忘れないトゥルミじいさん。青磁作りひとすじに生きる頑固一徹なミン親方。あれこれ口にはださないけれど、あたたかく見守るやさしいおかみさん。十二世紀韓国のお話ではありますが、彼らの生き方は、人間の本来あるべき姿として、別の時代を生きる私たちの、心にもつよく響いてまいります。

 読みそびれていた作品。こういうまっとうな児童書に出会うと、背筋がピンと伸びてくるのを感じます。片岡しのぶさんの訳もとてもいい。どこか他で出会った訳者だと思ったら、

あなたがもし奴隷だったら…

あなたがもし奴隷だったら…

でした。

昨日の内田先生「大学院の面接」
 

大学院の面接も、学生の社会的成熟度を見るという点では、就職試験と少しも変わらない。私がビジネスマンだった場合にその学生が来年四月から来る「新入社員」として使えるかどうか、それを基準に私は院生を査定している。
 「使える」というのは何か特殊な才能や技術を「すでに」有しているということではない。
「まだ知らないこと」を「すぐに習得する」ことができるかどうかである。学部教育程度で身につける学術的な知識情報のほとんどは「現場」では使いものにならない。だから学部教育が無意味だというようなことを言っているのではない。
 見なければいけないのは、大学でその知識情報を身につけるときにどのような「ブレークスルー」を経験したか、である。
 もしその学生が中学生・高校生のときに設定した知的枠組みを少しも壊されることなしに、無傷で大学四年間を過ごしてきたとしたら、そのような学生はどのような種類の仕事であれ(ビジネスであれ、学問研究であれ)適性を欠いている。
 この知識技術を身につけておくと「金になる」とか「就職に有利」とか「偉そうにできる」というような幼児的な動機で勉強している学生は、どれほど努力しても、それこそ体が壊れるほど勉強しても、それによっていかなるブレークスルーも経験することがない。
 ブレークスルーとは「脱皮=成熟」ということだからである。
一度でも脱皮=成熟を経験したことのあるものは、脱皮=成熟が「どういうこと」であるかを知っている。経験したことのないものにはその感覚がわからない。
自分の知的枠組みの解体再構築を喜ぶのは、ポストモダニストが言うように、エゴサントリックな知的秩序を自己審問することが知的=倫理的だからではない。単に「それが楽しいから」である。
 だから、私が若い人の成熟度を判定するときは、「その人がそれまで聞いたことのない種類の言葉」を聞いたときに「耳をふさぐ」か「耳を開くか」その瞬間的な反応を見る。
「知らないことば」にふれたとき「思わず微笑んでしまう」かどうかを見るだけで成熟度の判定には足りるのである。

太字はkoyateru

いつものように自問する。私は「脱皮=成熟」したんだろうか?