脳を喜ばせながら教養を高める読書法

毎日新聞茂木健一郎さんの「脳を喜ばせながら教養を高める読書法」が掲載されました。

 強く共感したので、抜粋します。太字は、koyateru

本を読めないという人は読書と自分の間に距離を置いているんですよ。子どもの時からそうだけど、電車に座ったらその瞬間に読み出す。間を置いてはいけないんです。あしたから読もうとか、悲壮な覚悟で読むのもいけない。全部読み通そうと思わなくていい。2、3ページでもいいんですよ。そこに光る言葉があるかもしれないじゃないですか。

 何が自分にとっていい本か、小説かというのを見つける喜びもあると思うんです。世間がいいと言っていたって、自分にいいとは限らない。いろんな本を読むと、自分にあった本が分かってくる。自分の愛する本に出会ったら、人生豊かになりますよ。

 優れた小説は、人生で何があっても生きていく力を与えてくれると思うんです。リストラされても大丈夫みたいなね。

 物語の力、「物語力」がない人って、逆境に弱い気がする。どんなにひどいことにあっても、必ずどこかの小説に書いてありますから。その中でどう主人公が生きていくか、そこまで含めて書いてある。人生でこういうことが起こりうるんだと、全部物語に書いてある。逆境の中で生きていく力を磨く、そのひな型は、物語の中にある。だから物語を知っているほど打たれ強い。
 目には見えないけど、自分の財産があるようなものですよ。その分だけ人生豊かになる。自分の周りに自分の好きな本があると、すてきな森にいるような気分です。好きな本が何もないとさびしい。

 本はもともと木。人間って木を触っていると安心する。本を読むって木に触っているようなものですからね。本を読むことに敷居があるひとは、森に行って本を触るって感じでいいんじゃないかな。

 −−本を読むのが格好よくないことのように言う人もいます。

 いや、ぼくはそういう言い方は認めません。本を読むことは格好いいことであり続けていると、ぼくは思っている。

 知のねじれ現象があると思う。おバカなことを競争するのは日本だけだと思います。知性は大切で、尊敬されるべきもので、格好いいものです。

 日本の人が本を読まなくなった。西洋哲学から近代科学まで、ありとあらゆるジャンルのことを身につける教養主義が廃れてしまった。日本経済の停滞は、日本人の知的なデフレと関係しているのではないでしょうか。これからのグローバルな大競争時代に、圧倒的な読書量と教養を身につけなかったら、勝てない。ひょっとしたら読書量と経済成長は相関があるのではないかと思うくらいです。

 本を読むのが格好悪いとか言っている場合ではないですよ。とっとと読めと言いたいね。

 読書がぜいたく品、嗜好(しこう)品みたいな考え方も間違いです。

 本にはすごくたくさんの情報がつまっているんですよ。映像を2時間見るのと、本を2時間読むのとでは情報の圧縮量がぜんぜん違う。映像2時間で伝えられることって少ない。本を読むということは、密度の濃い時間を過ごしているんです。ゲームやテレビも大事なメディアだけど、2時間本を読むことは10時間、100時間、ひょっとしたら1000年の時間が圧縮されている。そのくらいのすごさがある。

 「全部物語に書いてある」・・私程度の読書でも、ものすごくよく分かります。また、「本を読むことはかっこいい」というのは、先日の内田先生日記の

太字は、koyataru 

今の日本社会では「知性的にならない」ことに若者たちは知的エネルギーを集中している。
無知は情報の欠如のことではなく、(放っておくと入ってきてしまう)情報を網羅的に排除する間断なき努力の成果である。
「知性的になってはならない」という努力を80年代から日本は国策として遂行してきたわけであるから、これはスペクタキュラーな「成功」なのである。
だから、私たちが学生に与えるべきなのは知識や情報ではなく、「知性的な人間になっても決してそれで罰を受けることはないんだよ」という保証の言葉なのである。

「知性的な人間になっても決してそれで罰を受けることはないんだよ」と同じだと思いながら読みました。