保護者読み聞かせ

 本年度第1回 保護者読み聞かせ

 本校では昨年度3月の読み聞かせ時に、この5月分の読み聞かせクラスを予約します。そうしないと、担当が変わった時に、右往左往してしまうからです。
 
 終了後読み聞かせ本アンケートをお願いする。
 項目で「関西弁」というのを設けました。これは私が関西弁の本をたくさん知っていて自分で読めるからで、当然「東北弁」という項目はありません。
 ある方が、「関西弁の本をとても楽しそうに読んでた方がいたので、自分も挑戦したが、全然ダメだった」と言われていました。
 そうだろうと思います。私の関西弁も訛り?のある関西弁ですが、全く関西圏に住んだことのない方の関西弁物語は、やはり聞きづらいだろうなあと思います。

 

ところで、今日の内田先生の「おばさん」発言に爆笑
 
 大学入試の「現代文頻出著者」ランキングで内田先生は今年は2位だったそうです。
 

1位は養老孟司先生。
同率2位が鷲田清一先生で、3位が茂木健一郎さん。
というわけで、1位から3位まで全員「おともだち」でした。
不思議ですね。(中略)

 学者としては「中の下」である私が入試問題に選択される理由はいろいろ考えられるが、やはり一読して、「ふんふん、そういうことって、あるよな〜。いや、実はオレもそう思っていたんだよ」という共感度の高い読者を入試出題者のうちに得るということがランク入りの条件と拝察されるのである。
 しかし、どの執筆者の方も十分に共感度の高い読者をお持ちのようであるにもかかわらず、なぜそこに差ができるのか?
これについては私にひとつ仮説がある。
どうも、養老先生と鷲田先生と茂木さんと私の間にはある「共通点」があるように思われるのである。
それは何でしょう?
一分間考えてください。
・・・・・・・
はい、一分経過しました。
それは「おばさん」だということである。
養老先生とはこの論件については、かなり長い時間お話ししたことがあり、「私たちはおばさんである」ということについては合意に達している(詳細は『逆立ち日本論』を徴せられよ)。 

 この本は知らないなあと思ったら5月25日発売予定でした。

 ふつうの知識人は「私は賢い」ということを前提とした上で、「その賢い私はこのように推論する」という記述のかたちを採用する。
それに対して、おばさん的知識人は、「私は自分がどのように賢いのか(あるいは愚鈍なのか)実はよくわかっていないので、それについて吟味するところからはじめたい」という記述のかたちを採るので、話はいきおい長くくどくぐるぐると循環するようになる。
結果的にそこに述べられた命題の当否は措いて、おばさん的なエクリチュールがたいへん「対話的」なものになることはご理解いただけるであろう。

 なぜに私が毎日内田先生の文章を読まずには居られないのか?なぜに内田先生のすべての本を買って手元に置き、何かあるたびにふっと手にとってしまうのか?という疑問は、今日の文章中の「対話的」で理解できました。

 私の大学受験の時の№1は、小林秀雄でした。何冊も買い読みましたが、多分ほとんど理解できませんでした。私の場合、音楽的素養がないので、音楽に関する文章はより難解でした。
 今の受験生が受験の為とは言え「養老孟司内田樹鷲田清一茂木健一郎」の本を読むのであれば、幸せなことだと思います。
 そうか、私の本棚の本も今後のわが子たちの受験勉強に役立つのだと思えば、より大手を振って本が買える!

※今月号の月刊「NEW 教育とコンピュータ」@学研 にも「今月の話題」で内田先生の「下流志向」が取り上げられていました。すっかり時の人のようになっていってます。